2009年07月01日

日本の中西輝政や中川八洋は

日本の中西輝政や中川八洋は、「コミンテルン、中国共産党は日本、中国国民党の共倒れ、中国共産党の漁夫の利を得ようと画策していた。そしてその計画は第二次大戦後、実現することとなる。このことは、ソ連崩壊によって明らかになった資料や、中国共産党幹部の発言などから証拠付けられる。日中戦争が全面的に勃発した後も、日本・中国国民党間の和平を妨害しようとした」と論じている。従来の定説から離れた論である。
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1945年に日本が第二次世界大戦で敗北し、中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの中国国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東と蒋介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入させた。

満州を占領したソ連の後押しで東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的には国民政府を倒して中華人民共和国を建国した。国民政府は台湾へ遷都した。

1945年12月、ジョージ・C・マーシャル将軍はトルーマン大統領から中国における全権特使に任命され、13ヶ月中国に滞在したが、ソ連とアメリカで世界分割を行う密約を行っていた外交問題評議会(CFR)、太平洋問題調査会(IPR)の勢力に組した彼は、内戦において本来劣勢であった共産党が優勢となるような行動を意図的に取った、と言う主張があり、下記の点が指摘されている[1]。この疑惑は、後にアメリカ政界でマッカシー議員によるマッカーシズム(赤狩り運動)にまで発展した。

2009年06月13日

解析力学(かいせきりきがく、analytical mechanics)は

解析力学(かいせきりきがく、analytical mechanics)はニュートン力学を数学の解析学の手法を用いて記述する、数学的に洗練された形式。解析力学の体系は基本的にはラグランジュ力学とハミルトン力学により構成される。

力のつりあいについてのダランベールの原理から始め、つりあいを微小な変位による仕事の関係式に置き換える仮想仕事の原理によってエネルギーの問題に移した。
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幾何光学における変分原理であるフェルマーの原理からの類推で、古典力学において最小作用の原理(モーペルテューイの原理)が発見された。これにより、力学系の問題は、作用積分とよばれる量を最小にするような軌道をもとめる数学の問題になった。

座標を一般化座標に拡張し、ラグランジュ方程式が導き出された。 さらに、ラグランジアンから一般化運動量を定め、座標と運動量のルジャンドル変換によって、ハミルトン力学が導かれた。

ラグランジュ方程式は微分方程式を与えるのに対して、ハミルトンの正準方程式は積分を与える。

さらにこれから、ハミルトン・ヤコビの偏微分方程式が、得られる。

ラグランジュ形式は微分幾何学とも相性がよく、相対性理論の分野では必須である。 ハミルトン形式はその後の量子力学とくに行列力学へと続く。

2009年06月08日

広義の無意識と潜在意識

「意識でない領域」に関しては、様々な解釈が行われている。催眠状態での意識状態や、宗教的な儀式や薬物摂取で生じる「変性意識(変成意識)」なども、通常の意識でない状態である。

また、このような広義の変成意識などの他に、潜在意識やサブリミナルなどの「意識でない状態・領域」が考えられてきた。「意識でない領域」の存在は確実であるとしても、主観的に把握されるそのような領域について、客観的な記述や説明が行えるかというと困難である。
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フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。

しかし、無限定に無意識を述べることは、個々人の主観的な把握になり、またトランスパーソナル心理学における無意識もそうであるが、あまりに仮説的要素の大きい無意識は、実証性がますます困難であり、疑問となる。潜在意識やサブリミナルも、何を意味する概念なのか、不確定要素が多すぎる。主観的要素や解釈があまりに大きなそのような言葉の用法や概念については、疑問があると言うべきである。

2009年04月24日

中世の温暖期

中世の温暖期(Medieval Warm Period:MWP)とはヨーロッパの中世に相当する時期、およそ10世紀から14世紀にかけて続いたヨーロッパが温暖だった時期を指す。この時期の温暖化は地球温暖化や温室効果についての議論でしばしば話題にされる。

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中世の温暖期と小氷期についての初期の研究はほとんどヨーロッパのものである。ヨーロッパではこれらの証拠が非常に顕著で、詳細に研究されてきた。

今までこの気温の変化は世界的なものだと思われていたが、近年ではその見解については疑問を呈されている。2001年のIPCCレポートでは、 "この時間枠での気温の変化には世界的な共通性が見られないということから、'小氷期'や'中世の温暖期'という用語は、全球的もしくは半球規模の平均気温の変化傾向を表す慣例的な扱いに限定するべきである" と述べられている[1]。

ヨーロッパではこの時期、ヴァイキングが凍結していない海を渡ってグリーンランドに入植するなど、より北方へ領土を広げたことが知られている。また農業生産力が拡大し、人口増加・経済の復興などが見られ、そのエネルギーは盛期ロマネスク建築やゴシック建築の建設や十字軍の派遣などへと向かった。この温暖期のあと小氷期に入り19世紀まで寒冷な時期が続き、その後に現在の温暖化が始まっている。

歴史時代の地域的な気候を研究をしているほとんどの古気候学者は、寒冷な時期を小氷期、温暖な時期を中世の温暖期と便宜的に使用している。他の場合でも、小氷期や中世の温暖期の時期に相当する気候イベントに対して便宜的に用いられている。しかし、この温暖期に相当する期間に湿潤もしくは寒冷なイベントがみとめられる場所もある。特に南極中央部では北大西洋地域と反対の気候パターンが認められることもしばしばある。

2009年04月07日

グループ・サウンズ

グループ・サウンズ(またはグループ・サウンド)(和製英語:group sounds)とは、ギターを中心に数人で編成されるグループで主に1960年代後半(昭和40年代前半)に流行した。略称・GS。1966年のビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューした事を受け、若者向け芸能雑誌「週刊明星」がこれらのグループや音楽を総括して「グループ・サウンズ」または「グループ・サウンド」と呼び始めた事をきっかけに広まった呼称で、元は1965年に寺内タケシが当時のブルージーンズのジャンルを記者から聞かれた際の「グループ・サウンドだ」「でもそれだと単数形だからグループ・サウンズのほうがいい」というやりとりが最初と言われている。

現在、一般的に「グループ・サウンズ」といえば1960年代後半、ジャズ喫茶中心に活動したポップスグループやロックグループを指している。

グループ・サウンズに共通する事は、殆どのグループがリードボーカル+エレクトリックギター+エレクトリックベース+ドラムスといった編成をとっていることであるが、例外的に、初期ザ・ハプニングス・フォーやギターを弾くことを禁じられていたころのザ・フィンガーズ等のギターレスGS、シャープ・ホークスやザ・ワンダースの様な、プロのエレキバンドを従えたコーラスGSも存在していた。

当時は現在ほど音楽ジャンルの細分化が進んでいなかった時代でもあり、ジャッキー吉川とブルーコメッツやザ・スパイダースのようにビートルズ来日公演以前からプロのバンドとして活動していたものから、ザ・ワイルドワンズやザ・サベージのようなフォーク・ロック・グループ、またザ・タイガースやザ・テンプターズのように「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」に影響を受けた学生が仲間内で結成したロックバンド等までを「グループ・サウンズ」と定義しており、各グループの音楽性や表現性などにはかなりのばらつきがあった。

以下、主にプロのグループ・サウンズについての話だが、当時の音楽業界の一部は旧体制で、各レコード会社には専属の作曲家・作詞家がついており、プロの作家が書いた楽曲や、メンバーが書いたオリジナル曲でも、レコード会社に認められたものだけをシングル曲として発表させられたケースがあったと言われる。そのため、コンサート(リサイタル)などでは自分たちの好きな洋楽ロック等を中心に演奏し、シングル曲は絶対に演奏しないというポリシーを貫いたグループもいた[1]。

人気グループ・サウンズに於いてリードボーカルを務めていた人物の中からは、グループ解散後も歌手やミュージシャン、俳優、またタレントとして現在も芸能界の第一線で活躍している人物も多く、また他の楽器パートを務めていた人物にも、現在俳優や作曲家、音楽プロデューサー、芸能事務所経営者等として、現在の芸能界の重要人物となっている者が多くいる。

「グループ・サウンズ」という呼び名の定義があいまいな例として、例えばザ・ドリフターズなどもジャズ喫茶で活動していたが、テレビ等が中心だったためか、GS以前の活動歴が長かったためか、または音楽性のためか、当時も現在もGSとは呼ばれていない。また年輩の記者などの中には1970年代以降も、エレクトリックギター編成のロックバンド=グループ・サウンズと表現する人もおり、1970年代中頃までにデビューした「はっぴいえんど」や「キャロル」、「ツイスト」、「甲斐バンド」などといったロックグループまでが当時「グループ・サウンズ」と一部の雑誌等で表現された事がある[2]。

但し現在では、ロック・パイロット、モト冬樹も後期在籍していたローズマリーやゴダイゴのギタリストである浅野孝已が在籍していたチャコとヘルス・エンジェルなどはGSと呼んでも何ら問題はないとされている。この時期は「プレ・ネオGS期」と呼ばれる場合がある。

タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

2009年03月23日

名鉄5000系電車 (2代)

5000系電車(5000けいでんしゃ)は、名古屋鉄道の通勤形電車。

名鉄では2006年9月29日に特急列車の運行体系を見直すことを発表した。それによると、2000系「ミュースカイ」で運転される中部国際空港アクセス特急以外の列車はすべて一般車を連結した一部特別車編成に順次変更されることになった。これにより、1000系の全車特別車編成は余剰となることから廃車となり、同系列の主要機器を流用し、新規に製造された車体と組み合わせることとした。

なお、名鉄において機器流用車が製造されるのは1993年に落成した1030系2次車(1134F→その後1380系に改造)以来、15年ぶりのことである。

名鉄では1955年から1986年まで初代5000系が在籍しており、本系列は2代目であることから、「新5000系」と称されることもある。

車体 [編集]
3300系・3150系とほとんど同一の日車式ブロック工法による19m級片側3扉ステンレス車体である。ただし、先頭車前面は普通鋼製である。1000系の運転台機器を流用した関係で、先頭車前面は非貫通構造となり、1200系・1800系に似ているが、将来の非常用貫通扉設置改造が可能な設計とされている。
ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

車体側面の帯色は3300系・3150系と共通で、側窓下に赤帯を1本配する。先頭車前面は3300系・3150系とはブレーキ方式が異なり(後述)、併結が不可能であることから、識別のため、3300系・3150系で用いられているダークグレーのライトベゼルとガーニッシュをやめ、前面窓下の赤帯も、ピンストライプから太めの子持ちラインに変更されている。

前面および側面の種別・行先表示器は、3300系・3150系ではオーロラビジョンR-STAYを採用していたが、本系列では名鉄初のフルカラーLED式に変更された。行先表示がLEDとなっている場合、側面の表示器は走行中は消灯するケースが多いが、この5000系は走行中も点灯したままである。

車内 [編集]
客室のカラースキームはライトグレーを基調とする。

座席は2007年に落成した3150系2次車と同様にすべてロングシートで、一人当たりの掛け幅は470mm、座面高さは430mmである。座席モケットの色はブルー系を基調とする。構造は片持ち式が基本であるが、各車両の車端部1か所は機器艤装スペースを確保する観点から脚台付きとしている。客用ドア間の座席部には一部をライトブルーに着色したスタンションポールを2か所に配する。座席部のつり革の位置は床面から1630mmである。

優先席は各車両10席に拡大された。座席モケットは赤系で、加えてつり革とスタンションポールをオレンジ色とすることで、一般座席との区別を明確にしている。ただし、JR東日本E233系などに見られる床や壁は本系列では施されていない。 車椅子スペースは両先頭車の運転席後部に設置されている。3300系・3150系では折り畳み式の補助座席が設置されていたが、本系列では手すりと車椅子固定用のベルトを設置したため、荷物棚を含めて廃された。また、バリアフリー対策として3300系などと同じドアチャイムを装備している。

車内案内表示器はLED2段表示式で、各車両の客用ドア上部3か所に千鳥配置している。

運転台は1000系の機器を流用したため主幹制御器とブレーキ弁を配した2ハンドル式である。計器パネル部にはタッチパネル式のモニタ装置も設置されている。

2009年03月07日

ウェインライト (ミサイル巡洋艦)

ウェインライト(USS Wainwright, DLG/CG-28)は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦。ベルナップ級ミサイル巡洋艦の3番艦。艦名はウェインライト家(the Wainwright family)に因んで命名された。その名を持つ艦としては3隻目。
セロジネ ソラサ よどがわ リンネル マント チクング コスパ バックル マグニチ シンメト パトロール ナイト こだわ ブラック きえい イコライザ チューバ ミディサ ミオシン アケビ レッド 満龍 銀龍日本 ナイト シグマ ケマンソウ トハート スライダー セレシン おとずれ セーフ クサギ ナイト もろきゅ ローブ ナント テレマー デュー トロート ルシフ すげがさ ネオダマ 缶けり ドラム 山もみじ ドロップ プレス ニコラ トップ ハウンド

艦歴
ウェインライトは1962年7月2日にメイン州バスのバス鉄工所で起工する。1965年4月25日にリチャード・W・ウェインライト夫人から後援を受け進水し、1966年1月8日にロバート・P・フォアマン艦長の指揮下ボストン海軍造船所で就役した。

就役後は1月から5月にかけてボストンで整調を行い、5月21日に出航、新型ソナーの試験を行った後母港のサウスカロライナ州チャールストンに向かった。6月から8月上旬にかけて東海岸沿いおよび西インド諸島で作戦活動に従事し、この間に大西洋艦隊訓練海域で6度のミサイル発射試験を成功裏に行い、海中の未確認物体を3日間探索した。探索に参加した潜水艦は明確に識別することはできなかったが、ウェインライトは新型の長距離ソナーによって未確認艦を識別し、一時的に追跡した。

8月13日にチャールストンに帰還し整調訓練に備えて15日間の準備を行い、28日に出航する。整調訓練の終盤にはクレブラ島で砲撃およびテリアミサイル発射試験を行う。10月にチャールストンに帰還し例年の大西洋艦隊演習の準備に入る。11月28日に出航し17日間にわたる武器調整および補給訓練を行う。ウェインライトは12月16日に帰港し年末は母港で過ごした。

1967年1月6日、ウェインライトはボストンに向かい整調後の信頼性試験に入る。修理を完了すると3月15日にチャールストンへ帰還、その後4月10日に太平洋西部への最初の配備に向かう。一週間後にパナマ運河を通過し、4月23日にカリフォルニア州サンディエゴに到着した。一ヶ月間をカリフォルニア南部沖合での訓練に費やし、5月15日に西へ向けて出航、真珠湾とグアムで停泊した後6月3日にフィリピンのスービック海軍基地に到着した。

3日後、トンキン湾のステーションに到着し、6月8日にロングビーチ(USS Long Beach, CGN-9)とレーダー監視任務を交代した。ウェインライトは湾内において、同空域における全ての航空機に対してレーダーと目視による監視を行い、友軍機の保護と敵攻撃機の迎撃を行った。また、友軍の攻撃任務の際には陸上へのガイドとして貢献した。このほかにも探索救助ヘリの海上基地として救助任務に従事した。この任務の間に一機のヘリコプターがウェインライトの飛行甲板上で衝突したが、損傷はそれほど大きくなかったため翌日任務を再開した。

佐世保で3週間停泊した後沖縄に移動、テリアミサイルの発射試験を行ったウェインライトは、8月12日にレーダー監視任務を再開した。27日間の任務を終え9月8日に香港に向かい、同地に5日間停泊する。9月15日に香港を出航すると再びベトナム水域に向かい、三度目の配備につく。この間にウェインライトは防空指揮艦として2隻の空母から飛び立った部隊の指揮をヤンキー・ステーション(Yankee Station)で行い、第77任務部隊の防空指揮艦としても貢献した。9月28日にウェインライトはその任務を終えトンキン湾を離れる。帰路の途中スービック湾、シドニー、ウェリントン、タヒチを訪れ、11月12日にパナマ運河を通過、その4日後にチャールストンに到着した。

ウェインライトはその後1968年の始まりまでチャールストンに留まる。1968年1月19日にロードアイランド州ニューポートに向けて出航し、1月21日から2月3日まで駆逐艦学校のための訓練船の役割を果たし、2月5日にチャールストンに帰港した。続いて西インド諸島で演習「ラグビー・マッチ Rugby Match」を含む作戦活動に参加し、6月24日に西太平洋に向かう。6月29日にパナマ運河を通過し、7月11日から15日まで真珠湾に、21日にグアムに停泊した後、26日にスービック湾に到着する。4日後に同年初の戦闘配備につく。8月2日にダナンで状況報告を受け、8月4日にスタレット(USS Sterett, DLG-31)とレーダー監視ステーションで任務を交代する。続く41日間をその任地で停泊し、同水域を離れたのは台風回避の一度だけであった。9月14日にスタレットと任務を交代しスービック湾で調整を行った後、香港、横須賀を訪問、10月13日に再びスタレットと任務を交代する。続く27日間は前の任務期間より慣例的に過ぎ、11月15日にトンキン湾を離れ19日から23日までの4日間を佐世保で停泊する。11月28日に再びレーダー監視ステーションに戻ると、北部空域監視艦としてトンキン湾で1968年を終えた。

1969年は1月3日までレーダー監視任務に従事し、続いてフィリピンへ向かう。1月5日から1月9日までスービック湾で停泊した後、オーストラリアのシドニー、ニュージーランドのオークランド、タヒチのパペーテに立ち寄り、2月11日にパナマ運河を通過、2月15日にセント・トーマス島に停泊し、2月21日に母港のチャールストンに到着する。

一ヶ月に及ぶ維持作業の後、春にはチャールストンで全体的な検査を行い、5月の半ばにバージニア州ノーフォークに向かう。そこではバージニア岬沖の訓練海域で行われた大統領への艦隊デモンストレーションに参加した。デモンストレーションは5月19日に終了し、その後南へ向かい多面戦闘演習「エキゾチック・ダンサー Exotic Dancer」に参加する。6月の最初の2週、ウェインライトは西インド諸島でカナダ、イギリス、オランダおよびポルトガル海軍艦艇と共にNATOの対潜水艦戦演習「スパーク・プラグ Spark Plug」に参加した。同演習は6月11日に終了し、その後ニューポートへ向かい、同地で第2巡洋艦駆逐艦小艦隊の指揮艦は下船した。6月16日にチャールストンへ戻り、8月18日に最初の定期オーバーホールのためチャールストン海軍造船所(Charleston Navy Yard|Charleston Navy Yard)入りする。

1970年2月16日にウェインライトは作戦活動に入る。バージニア岬沖及びフロリダ沖での訓練で3月の大半が過ぎ、チャールストンに3日間停泊した後プエルトリコ近海の大西洋艦隊訓練海域で砲撃及びミサイル発射訓練を行う。その後4月にはグアンタナモ湾で回復訓練を行うが訓練は二度の特別命令で中断された。4月26日、クーデターに失敗し逃亡を図った3隻のハイチ沿岸警備艇を拿捕するよう命令を受ける。グアンタナモ湾入り口で一隻と遭遇するが、その船にはアメリカの港湾職員が同乗していたためウェインライトはそのまま航行を続けた。その後残りの2隻を発見し、一時収容のためグアンタナモ湾へ連行した。5月10日にはソ連艦隊への対処を命じられる。その夜ウェインライトはソ連のミサイル巡洋艦およびミサイル駆逐艦と遭遇した。翌日には2隻の潜水艦、給油艦、潜水艦母艦と遭遇し、6隻のソ連艦は5月14日にキューバのシエンフエゴスに入港した。翌日ウェインライトはグアンタナモ湾に戻り中断していた回復訓練を再開した。6月12日にチャールストンに帰還し、極東への次回配備に備えて2ヶ月間に及ぶ維持作業、訓練を行う。

8月25日にウェインライトはチャールストンを出港し3度目の極東配備に入る。パナマ運河、真珠湾経由で9月21日に横須賀に到着し、2ヶ月にわたって日本海で海上自衛隊と共に対潜水艦演習を行った。ウェインライトは横須賀と佐世保に定期的に寄港した。

11月14日に日本を出発し、台湾海峡経由でトンキン湾に入る。11月20日にジョーエット(USS Jouett, DLG-29)とレーダー監視ステーションで任務を交代し、湾北部で空域監視任務に従事する。任務は短期で終了し、翌日シカゴ(USS Chicago, CG-11)と任務を交代、ウェインライトは北部探索救助ステーションで調整艦としての任務に就く。一ヶ月にわたって北部及び南部の探索救助ステーションを行き来し、12月半ばにはオペレーション・ビーコン・タワー(三日間行われたアメリカ軍艦艇による航空、地上攻撃に対する即応性試験演習)に参加する。12月16日に戦闘地帯を離れシンガポールに向かい、12月19日から26日まで停泊、その後フィリピンに向かいスービック湾に12月29日到着する。

スービック湾に6日間停泊した後、1971年1月4日に香港へ向けて出航するが、レーダーアンテナ修理のためスービック湾に戻り、1月11日に香港に到着した。香港には4日間停泊し、その後再びトンキン湾に向かう。トンキン湾では16日間にわたってレーダー監視任務及び北部探索救助艦としての任務に従事した。

スービック湾で2日間停泊した後、ウェインライトは本国への帰途に就く。インド洋から喜望峰を周り南大西洋を横断して最初の世界巡航を完了した。その間にフランス領ソマリランドのジブチから始めてアフリカの様々な港を訪問し、エチオピアのマッサワでは各国の海軍艦艇と共にエチオピア海軍記念日祭典に参加、エチオピア海軍士官学校生と皇帝ハイレ・セラシエ1世が乗艦した。その後マダガスカルのディエゴ・スアレス(Diego-Suárez)、モザンビークのロレンソ・マルケス(Lourenço Marques)を訪れた後大西洋を越えブラジルに向かう。ブラジルではリオデジャネイロとレシフェを訪れ、ヴァージン諸島のセント・トーマス島に停泊した後プエルトリコのクレブラ島で砲撃、ミサイル発射訓練を行い、4月2日にチャールストンに向けて出航する。

ウェインライトはベトナム戦争での功績で4つの従軍星章を受章した。

ウェインライトは1993年11月15日に退役しモスボール処置が施された上保管された。その後2002年6月11日に標的艦として二発のハープーン・ミサイルが撃ち込まれる。翌日に2発の魚雷によって海没処分された。

2009年02月19日

U.S.S.ヴォイジャー(U.S.S.Voyager)

U.S.S.ヴォイジャー(U.S.S.Voyager)は、テレビ番組『スタートレック:ヴォイジャー』 (Star Trek: Voyager, VGRまたはVOY)に登場する架空の宇宙船。
おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

イントレピッド級深宇宙調査船で、登録番号はNCC-74656。

艦長はキャスリン・ジェインウェイ。

全長:344.4m、重量:70万t、デッキ数:15、乗員:約150人。

惑星連邦所属の最新鋭艦(当時)で最大速度はワープ9.975と史上最速。ワープ時にはワープナセルが可変するのも特徴のひとつとなっている。この可変ワープナセルは時空連続体の破壊の危険性があるとされてきたワープ5以上の航行を安全に行うために開発された機構である。

ヴォイジャーには連邦鑑に通常見られる第一船体、第二船体という区分が存在せず、緊急時の分離機能を備えていない。そのため、通常第一船体にある軟着陸用脚部パッドが第二船体にあたる部分にあるため、ボイジャー自身での惑星着陸が可能である(参考:ディファイアント級にも単独惑星着陸能力がある)。

また、この艦のもっとも特徴的な装備のひとつに緊急用医療ホログラム(通称「ドクター」)が挙げられる。デルタ宇宙域に飛ばされた際に主任を含む、医療班全員が死亡してしまったヴォイジャーにとっては、この「ドクター」なしには生還は考えられなかったと言っても過言ではない。(緊急用医療ホログラムは本来『短期間的』ホログラムドクターだったが、状況的に短期では済まない為数々の改良.修理が必要となり、他艦のホロドクターより人間に近い存在になる。)

攻撃および防御システム
主な攻撃システムは、「フェイザー・アレイ」を上下左右に計七門、「光子魚雷」は発射管を前後計4門装備し、タイプ6を38発(地球出航時)装備している他、「トリコバルト魚雷」や爆発物である「サルメライト」を40トン以上搭載している。量子魚雷は搭載していない。

また、普段は隕石や宇宙塵などの衝突などから艦を護る「デフレクター盤」は、後に「タキオン・ビーム」や重力子ビームなどの指向性ビームを発射出来るように改造された。

さらに最終話において未来からやってきたジェインウェイ提督が持ってきたトランスフェイズ魚雷や展開式装甲(可変型のアブレーティブ装甲)といったものを装備する。その性能はすさまじく、当時の通常の艦ならば艦隊を組まなければ1隻すら沈められないはずの「ボーグ・キューブ」を一蹴した。一説に最終話のヴォイジャーがスタートレック史上最強だとも言われるゆえんである。

ちなみに時間規則を厳守している為か、ヴォイジャーが地球に帰還した後の話である『ネメシス/S.T.X』においてトランスフェイズ魚雷や展開式装甲は使用されていない。

制御システム
制御システムには人間の脳を模したバイオ・ニューラル・ジェルパックという有機回路を利用している、バイオ神経回路システムを取り入れている。メンテナンス・ハッチを開けると、パックに入った黒っぽいゲル状物質が見える。故障の際はこのジェルパックごと取り替えるだけで修復が可能である。

このバイオ神経回路の搭載により情報処理速度が飛躍的に向上したが、デルタ宇宙域で孤立無援となったヴォイジャーにとって、予備の補充もなくレプリケーターでの複製の困難なバイオ神経回路の故障は致命的である。またこのバイオ神経回路は通常の生命体同様に疾病にかかることがあるという弱点もある。このことにより思いがけない危機に瀕した事もあるが、ワクチンや熱消毒などの有機的治療が可能であると実証されたため、ドクターによる治療で何とか危機を脱している。

デッキ構成
「第1デッキ」にメインブリッジ。その右舷側には作戦室(艦長室)、左舷側には会議室がメインブリッジから直接行き来出来る位置にある。

「第2デッキ」には艦長専用の食堂をニーリックスが改造した厨房兼食堂がある。

「第3デッキ」には乗客用船室と艦長の私室があり、「第四デッキ」には船首センサーアレイの多くの部分が含まれている他、メインターボリフト付近には転送室がある。また、「第3、第4デッキ船尾」には光子魚雷発射管も装備されている。

「第4、6、9デッキ」にクルーの私室があり、おのおのに割り振られている。

「第5デッキ」にはドクターのいる医療室、「第6デッキ」にはホロデッキがあり、重力子ジェネレーター、フィールド増幅器、収束コイルなど重要な設備も存在する。

「第7デッキ」には貨物室があり、第二貨物室はケスの水耕栽培室になっている。

「第8デッキ」はこの艦において最長のデッキで、主だったネットワーク設備や空気再処理システムがある。また星図作成室、後にセブン・オブ・ナインとハリー・キムによって改造され天体測定ラボになる部屋もこの第8デッキに存在する。

「第9、10デッキ」船尾には格納庫、「第10デッキ」前方に前部光子魚雷発射管、「第10〜12デッキ」にはメイン・コンピュータ・コアがあり、艦の心臓部である機関室は「第10、11デッキ」にある。機関室を貫くように設置されているワープ・コアは「第10〜15デッキ」にまたがり、船体後方に位置する予備ワープコアは「第9〜第14デッキ」を貫く。

クルー私室:4、6、9

艦載機
艦載シャトルはタイプ2、タイプ6「サカジャウェア」、タイプ8「テレシコワ」「ドレイク」、タイプ9「コクレーン」があるが、最も任務に貢献したシャトルといえば、トム・パリスがヴォイジャー内で設計、建造した「デルタ・フライヤー」が挙げられるであろう。

また、第一船体下部には、エアロシャトル(Aeroshuttle)またはエアロウィング(AeroWing)と呼ばれるキャプテン専用シャトル(captain's yacht)の一種がドッキングされている。劇中で活躍することがなかったため、その存在はあまり知られていないが、第一船体下部の切れ込みからその存在を知ることが出来る。

映画『スタートレック 叛乱』では、U.S.S.エンタープライズEの専用シャトルが登場するが、こちらはクストー(Cousteau)と名づけられている。

2009年02月03日

清和源氏(せいわげんじ)

清和源氏(せいわげんじ)は、56代清和天皇の皇子を祖とする賜姓皇族。もっとも栄えたのは第六皇子貞純親王の子の六孫王経基の子孫の系統。中級貴族であった経基の子源満仲(多田満仲)が藤原北家による摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成する。

そして、彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕え武門としての勢力を拡大し、後に主流となった頼信の嫡流が東国の武士団を支配下に置いて武門の棟梁としての地位を固め、源頼朝の代に鎌倉幕府を開き武家政権を確立した。
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清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではない。

清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王が臣籍降下により源姓を賜ったことに遡る。源経基の名跡を継いだ源満仲は、摂津国川辺郡多田(現・兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成した。酒呑童子退治などで有名な満仲の長男の源頼光も、摂津国に拠点を置いたことから摂津源氏と呼ばれる。摂津源氏の中で多田に土着する系統を多田源氏といい、傍流からは美濃に土着した美濃源氏が輩出される。満仲の次男の源頼親の系統は、大和国宇野(現・奈良県)を本拠地としたことから大和源氏といわれる。また、満仲の三男の源頼信の系統(厳密に言えば、義忠・義時流)は、河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏といわれる

頼信の子、源頼義は前九年の役にて陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚長 安倍氏を討ち、その子、八幡太郎義家は出羽国の俘囚長、清原氏の内紛を治め(後三年の役)、声望を高めた。河内源氏が東国に足掛かりを持つようになったのもこの頃である。河内源氏はこのように武名を現したことから、事実上清和源氏の嫡流の地位を占めるに至った。

このような河内源氏の興隆は、時の権力者 白河法皇の警戒を招く。義家の長男・源義親は対馬守に任ぜられ、その後義親は反朝廷的行為などの罪を問われて追討を受けている。義家の死後、家督を継いだ源義忠が源義光の策謀で暗殺されると河内源氏の勢力は弱体化する。源義忠の後を継いだ源為義が効果的な施策を打ち出せずにいた一方、白河院の寵愛を受けた伊勢平氏傍流の平正盛が地位を固めていったことで、武門の中で河内源氏の勢力は相対的に低下していった。

不遇を囲った源為義の子で東国に下っていた源義朝は、保元の乱において、河内源氏恩顧の関東の武士を糾合して天皇方に立ち、上皇方の父為義や源為朝など弟を敵に回して勝利した。しかし、一族の多くを失った源義朝は、同じく天皇方についた平清盛と比較して勢力を伸ばすことができなかった。そのため、義朝は河内源氏の勢力回復をはかり、藤原信頼と手を結んで後白河上皇を幽閉、平治の乱を起こす。一時天下を我が物にした義朝だったが、平清盛らが秘密裏に上皇らを救出したことで形勢逆転、敗退して京を落ち、東国へ向かう。しかし、道中で、腹心の鎌田政清の舅になる尾張国の長田忠致の手にかかって殺害された。

20年余の時を経て、以仁王の令旨を奉じた摂津源氏の源頼政、熊野に潜んでいた河内源氏庶流の源行家らの檄を受け、河内源氏の源義朝の子である源頼朝、源希義、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、八幡太郎義家の弟の源義光(新羅三郎義光)の子孫の甲斐源氏武田氏の源信義らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生する。当初は平家が源氏を圧倒していたが、次第に形勢が逆転し、源家の頼朝軍が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして勝利した。

平家の追討に成功した頼朝は奥州藤原氏を討ち、勢力基盤を固めた。武家政権の台頭を嫌いその勢威を抑制してきた後白河法皇が死去すると、1192年に征夷大将軍に任ぜられ、今日でいう鎌倉幕府が成立した。これにより、清和源氏が武家の棟梁であると名実共に認められた。ただし、源頼朝の系統は、頼朝の子源実朝が、兄源頼家の子公暁に殺害され、その公暁も捕らえられて処刑されたため男系は断絶、女系も頼家の娘・竹御所が死産により死去したことで完全に断絶した。

鎌倉・室町幕府と源氏一門
鎌倉幕府において、源氏一門は、血統や功績等により源姓を称することが許される御門葉と、源姓を称することが適わず、名字を称するものに区別された。しかし、源氏一門たる御家人は門葉であるか否かを問わず従五位下に叙し国司に任ずる格式を許されていた[要出典]。

鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した清和源氏の名門足利氏の棟梁足利尊氏は、対抗勢力を打ち破り、武家の棟梁として1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く。ここに至り、清和源氏が武家の棟梁となる慣習が確立したと言われる[要出典]。足利義満は、清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の将軍が源氏長者となる道を開いた。戦国時代には、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する者も出てきた。

清和源氏と徳川氏・島津氏
三河国の豪族松平氏は、信光の代には賀茂氏を名乗っていたという。家康が徳川氏に改姓するにあたって称した氏は藤原氏であった。そのため、慣例で源氏がなるとされていた征夷大将軍に任官されるために、新田氏の末裔となるべく系図を借り受けて「源朝臣」を称するようになったという解釈がされることが多い。しかし、笠谷和比古等の研究によると、1588年の後陽成天皇聚楽第行幸の際には、家康はすでに源朝臣を名乗っていたという。また、家康の祖父の松平清康の代には既に世良田氏の子孫を名乗っていたという説もある。いずれにしても、徳川氏は清和源氏を仮冒したとされる。その後家康は慶長八年(1603年)に征夷大将軍と源氏長者に任じられ、幕府を開いた。

薩摩国の大名(鎌倉時代は守護、室町時代は守護大名、戦国時代は戦国大名、江戸時代は薩摩藩主)島津氏も元来は惟宗氏の出で、島津家の祖・忠久は惟宗広言とされてきた(近年では惟宗忠康の子という説が有力)。だが忠久が源頼朝により抜擢・厚遇されたことからその理由付けとして「忠久は頼朝の庶子」という系図を借り受けて「源朝臣」を称するようになったとされている。故に島津氏も徳川氏同様清和源氏を仮冒したとされる。

清和源氏と征夷大将軍
武家の棟梁である征夷大将軍には清和源氏の者しかなれないという説がある。しかし、坂上田村麻呂や大伴弟麻呂や藤原頼経といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性があった(三職推任問題)。そのため、現在ではこの説は俗説とされている。

陽成源氏説
陽成源氏説は明治の歴史学者星野恒の説で、『清和源氏の祖は実は清和天皇ではなく陽成天皇であるが、暴君であったとされる陽成帝の名を冠せず清和源氏を名乗った』というものである。石清水八幡宮祠官田中家文書の中に源頼信が誉田山陵(応神天皇陵)に納めたと称する永承元年告文に「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇」と明記してあることが根拠である。然し、この文書は写本であり、告文の裏面に校正したと但書きがあることから信憑性を疑うむきもある。

この説に賛意を示す学者もいるが、広く学界の承認するまでには至っていない。

系譜
清和天皇?貞純親王?源経基?源満仲
清和天皇?陽成天皇?元平親王?源経基?源満仲  

様々な解釈
「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考── 源朝臣経基の出自をめぐつて ──」『聖学院大学総合研究所紀要』 No.25, 2003.1, pp.337-373.(赤坂恒明氏) 『権記』に引用されている天暦七年の王氏爵不正事件に現れる、清和天皇の子孫でありながら陽成天皇子孫を詐称したとして罰せられた源経忠を経基あるいはその兄弟と推定し、頼信が願文で陽成天皇の子孫であることは真実であると主張して名誉回復を図ったと解釈する。
「陽成源氏の幻想」『姓氏と家紋』 1989年,「源頼信告文の真偽」(宝賀寿男氏) 旧来の系図が正しいという立場。

清和源氏系諸氏
一般には清和源氏とされていても仮冒の可能性がある氏族もある。

摂津源氏
源頼綱の子孫(多田源氏) - 多田氏、馬場氏、下間氏、小国氏、山縣氏、及川氏、能勢氏、源姓小野寺氏など。
源国房の子孫(美濃源氏) - 土岐氏、明智氏、浅野氏など。
大和源氏 - 奥州石川氏、宇野氏、片岡氏など。
河内源氏
源頼清の子孫(信濃源氏) - 村上氏、河内氏、出浦氏、小野沢氏など。
源頼季の子孫(信濃源氏) - 井上氏など。
源義綱の子孫(美濃源氏) - 石橋氏、服部氏、宮氏など。
源義家の子孫(石川・上野・下野・三河源氏ほか) - 対馬氏、新田氏、山名氏、里見氏、岩松氏、田部井氏、足利氏、斯波氏、畠山氏、細川氏、一色氏、石塔氏、広沢氏、石橋氏、今川氏、吉良氏、稲沢氏、飯富氏、野長瀬氏、石川氏、二条氏、杭全氏、源姓毛利氏、木曽氏、新宮氏、愛智氏、吉見氏など多数。
源義光の子孫(常陸源氏) - 佐竹氏、山入氏など。
源義光の子孫(甲斐・信濃源氏) - 逸見氏、武田氏、小笠原氏、伴野氏、大井氏、板垣氏、一条氏、平賀氏、金津氏、伊沢氏、石禾氏、南部氏など。
源義光の子孫(近江源氏) - 山本氏など。
源満政の子孫(美濃・尾張・三河源氏) - 八島氏、木田氏、山田氏、足助氏、水野氏など。
源満季の子孫(近江源氏) - 高屋氏、平井氏など。
源満快の子孫(信濃源氏) - 伊那氏、泉氏、夏目氏、片桐氏、三刀屋氏など。
その他の源氏 - その他柏原氏、など多数。

主な清和源氏出身者<源姓を除く(同一姓は著名な者のみ)>
土岐頼遠、土岐康行、宇野親治、大森盛長、村上義清、武田信玄、馬場信春、小笠原長時、板垣退助、南部晴政、佐竹義重、新田義貞、山名持豊、里見義堯、足利尊氏、足利義満、足利義政、足利義昭、斯波義将、畠山満家、細川頼之、細川勝元、細川政元、細川幽斎、今川貞世、今川義元、吉良義央、飯富虎昌、吉見正頼、最上義光

清和源氏の後裔と称される一族
島津氏(源頼朝の落胤を祖と称した)
徳川氏(新田氏の一族と称した)
舜天王統(王朝の祖、舜天が源為朝であるという伝説がある)

河内源氏三代墓所
大阪府羽曳野市は、源頼信、頼義、義家と続く武家棟梁となった河内源氏の本拠地であり、八幡太郎義家をはじめとする河内源氏の墓や、氏神の壷井八幡宮や壷井権現がある。

清和源氏同族会・多田満仲同族会
源満仲を祭神とする兵庫県川西市多田院にある多田神社では1939年5月、清和源氏一門として崇神崇祖、日本の産業と文化発展、一門の相互親和を図る目的で『清和源氏同族会』を設立した。

また東京都中野区にも存在する満仲を祭神とした多田神社でも、敬神崇祖を目的として1962年に『多田満仲同族会』が結成されている。

清和源氏にまつわるエピソード
兵庫県川西市では清和源氏の祖、多田満仲の本拠地であったところから、その歴史にちなんで「源氏のふるさと」として地域振興をしている。同市ゆかりの有名人または出身者に対して「源氏のふるさと大使」を委嘱し観光PRに努めている。

なお、兵庫県川西市のニュータウンである清和台(阪急バスの清和台営業所などがそれ)は清和源氏の名から来ているとされる。

経基流以外の清和源氏
清和天皇の皇子・皇孫の多くが源姓を賜り臣籍に下ったとされ、経基流以外の者も歴史上に登場する。しかし、歴史の表舞台で長きに渡り繁栄した系統は経基流のみである。

源兼忠…清和天皇の第三皇子貞元親王の子。
源重之…上記源兼忠の甥。
源孝道…清和天皇の第九皇子貞真親王の孫。
滋野氏…源姓ではないが、清和天皇の第五皇子貞保親王の後裔とも称する。

2009年01月20日

宇治拾遺集

おもしろみのある話の源流は『竹取物語』、または『今昔物語』や『宇治拾遺集』に収められた説話にまでさかのぼる。滑稽な話を集めた本の元祖としては、誓願寺の安楽庵策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたという1623年の『醒睡笑』が挙げられる。この本を元にして『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』など現在でも演じられるはなしが生まれた。また、豊臣秀吉におとぎ話を聞かせる御伽衆の一人、曽呂利新左衛門も落語家の先祖であるといわれるが、架空の人物であるとも言われる。

17世紀後半になると、江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄」を始めた。同時期に京都では露の五郎兵衛が四条河原で活躍し、後水尾天皇の皇女の御前で演じることもあった。大坂には米沢彦八が現れて人気を博し、名古屋でも公演をした。また、『寿限無』の元になる話を作ったのが初代の彦八であると言われている。

トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ

18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。これが白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれた。上方では1770年代に、江戸では1786年に烏亭焉馬らによって咄の会が始められた。やがて1798年に岡本万作と初代三笑亭可楽がそれぞれ江戸で2軒の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増えた。

幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝は歴史的な名人として知られ、圓朝の高座を書き記した速記本は当時の文学、特に言文一致の文章の成立に大きな影響を与えた。

1917年8月には柳派と三遊派が合併し、4代目橘家圓蔵、初代三遊亭圓右、3代目柳家小さんらが中心となって演芸会社「東京寄席演芸株式会社」や5代目柳亭左楽は「三遊柳連睦会(通称、睦会)」設立。その後「東京寄席演芸株式会社」は翌年に「東京演芸合資会社」と名前を変える。1923年に「睦会」と「会社」が合併し「東京落語協会(落語協会の前身)」設立。大学のサークルとしての落語研究会、通称「落研(おちけん)」が生まれたのは昭和20年代頃で、東京大学や早稲田大学のものが始まりだと言われている。現在、学生落語の全国大会として、“落語の祖”といわれる安楽庵策伝の名を冠した「全日本学生落語選手権・策伝大賞」が年1回、岐阜市で開催されている。